This is a Japanese translation of “All Animals Are Equal

ピーター・シンガー『動物の解放』第三版第一章「すべての動物は平等である」からの抜粋

すべての人間はその人種、信条、性別にかかわらず平等(equal)であると言うとき、私たちは何を主張しているのだろうか。階層的で不平等な社会を擁護しようと望む人びとはしばしば、〈どの基準をもってこようとも、すべての人間が平等であるというのは端的に言って真実ではない〉と指摘してきた。好もうが好まざるかにかかわらず、人間が異なる姿かたちと体躯をもって生まれるという事実、異なる道徳的能力や知的能力、慈しみの心の大きさの違いや他者のニーズに対する感受性をもって生まれてくるという事実、自分の意思を効果的に伝える能力も異なり、そして、快苦を経験する能力も異なるものをもって生まれてくるという事実を、我々は直視しなければならない。簡単に言えば、平等への要求が、すべての人間が実際に同等である(equal)ことに基づいているなら、我々は平等を求めるべきではなかっただろう[1]。それでもまだ、人間どうしの平等への要求は、人種や性別が違っても人びとは実際に同等であることに基づいている、という考えから離れられない人もいるかもしれない。

しかし平等を支持する主張が、ある特定の科学的な研究成果に支えられている必要はない。人種間や異なる性別のあいだに存在する遺伝子に基づく能力差の証拠を見つけたと主張する者への適切な応答は〈その主張に反対するためのどんな証拠が後で出てくるにせよ、ともかくその遺伝子に訴える説明は誤っているはずだ〉という信念に固執することではない。その代わりに我々がなすべきは平等性の主張が知性や道徳的な能力、身体の強さなどの事実問題には依存しないことを少なからず明確にしておくことだ。平等性は道徳的な観念であって、事実の主張ではない。〈ふたりの人間のあいだに能力の違いがあるという事実は、彼らのニーズと利害に払う考慮の量に違いをつけることを正当化する〉ことへの論理的に説得力のある理由は存在しない。人間に関する平等の原理は人間たちのあいだに実際にあるとされる同等性の記述ではない。それは、我々が人間をどう扱うべきなのかを指図する指令(prescription)なのだ。

道徳哲学における功利主義学派再建の祖であるジェレミー・ベンサムは「ひとりはひとりとして数えられ、誰もふたり以上としては数えられない」という公式によって、道徳的平等の基礎となる本質的な部分を彼の倫理体系に組み込んでいた。ベンサムの公式を言い換えるなら、ある行為に影響を受けるすべての存在者の利害が考慮されるべきであり、他の存在者と同様の利害と同じ重みを与えられねばならない、ということだ …

我々のもつ他者への関心や、他者の利害を──そうした利害がどのようなものであれ── 進んで考慮に入れようとする我々の姿勢(our readiness to consider their interests) は、そうした他者がどんな特徴や能力を所有しているのかに依るべきではない。これは上に述べた平等の原理のひとつの含意である。我々の関心や考慮事項に基づき具体的に我々が何をすべきかは、我々の行為に影響を受ける者たちの特徴によって変わりうる。例えば、アメリカで育つ子どもたちの福利(well-being)を考慮するなら、彼らが字を読めるように教育する必要があるだろうし、豚の福利を考慮するなら彼らを仲間と一緒に十分な食事があり、自由に走ることのできる場所におくことくらいしか要求されないかもしれない。しかし基本的な要素──当の存在の利害を、その利害が何であれ考慮に入れること──は、平等の原理に従えば黒人や白人、男性と女性、そして人間とそれ以外も含めてすべての存在に拡大されなければならない。   

トーマス・ジェファーソンこそ、人間の平等の原理をアメリカ独立宣言に書き入れた立役者だが、彼はこの点を理解していた。だからこそ彼は、彼自身、奴隷の所有を完全にやめることはできなかったにもかかわらず、奴隷制に反対するに至ったのだ。黒人には限られた知的能力しかないという当時一般的だった見解に反駁するため、黒人たちの目立った知的業績を強調する本の著者に宛てた手紙の中で、ジェファーソンは次のように書いている。

「黒人たちの生来の知性の程度について私自身が抱き、表現してきた疑いへ完全な反駁がされ、黒人たちが我々と肩を並べる位置にあることを見出したいと私以上に望んでいる者は、今生きている者のなかにはいないと請け合おう... しかし黒人たちの才覚がどの程度のものであれ、それは黒人たちの権利を測る物差しにはならない。アイザック・ニュートン卿がその知性において他の人間たちよりも優れていたからと言って、他の人びとの財産や人格の主となるわけではない。」[2]

人種差別に反対する議論や、性差別に反対する議論が最終的な拠りどころとしなければならないのはこの前提だ。また、この原理に従ってこそ、我々が人種差別とのアナロジーで「種差別(speciesism)」と呼びうる態度も非難されなければならない。より高い知性をもつことは、一方の人間に他方の人間を自己の目的のために利用する資格を与えるわけではないとしたら、より高い知性をもつことがいったいどうして人間たちに、人間以外のものを自己の目的のために搾取する資格を与えることができるというのだろうか。

異種間の苦しみを比較するのは不可能なのだから、動物や人間の利害が衝突する場合には、平等の原理は手引きにはならないと反対されるかもしれない。異なる種に属す成員どうしの苦しみの正確な比較ができないというのはおそらく真実だろうが、正確さは本質的ではない。人間の利害が受ける影響が、動物が被る影響の程度と比較して遥かに小さいと確信できる場合にのみ動物に与える苦しみを防ぐべきだとしてさえも、我々の食事や、我々が用いている畜産方法、多くの科学分野で行われている実験方法、野生動物との付き合い方や狩猟、罠による捕獲、毛皮の着用、サーカスやロデオ、動物園などの娯楽分野などでの動物たちの取り扱いを、我々は根本的に変えなければならないだろう。そうなれば、莫大な量の苦しみが避けられることになるだろう。[3]

  1. ^

    というのも人間が実際に(身長や体格、外見、身体能力、知性等々において)同等であることが平等を要求する根拠であるなら、そのような同等性は実際には存在しないのだから、平等を要求する根拠はないだろう(と階層的で不平等な社会を擁護しようと望む人びとは論じる)から。

  2. ^

    Letter to Henry Gregoire, February 25, 1809.Retrieved from http://hdl.loc.gov/loc.mss/mtj.mtjbib019810 

  3. ^

    翻訳に際して、戸田清訳『動物の解放 改訂版』(2011年、人文書院)の第一章を参考にした。

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